人に喜んでもらえることを追求し続けている人

コラム

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最近、僧侶や神官の修行と庶民の修行の違いについて考えることがあります。
そのどちらも修行の原点は同じではないかと思います。

修行は
[己を高める。ーー高めた技術・心で他人に施す。ーーその結果、また己が高まる。]
この循環を死ぬまで続けるのが修行ではないかと・・・。
ただ、そこに金・権力・名誉が絡み、それが優先されるから醜い結果を生み出してしまう。

本来、金・権力・名誉に一番遠い「僧侶・神官」にもこの傾向が見られるのは、まことに残念です。京都先斗町・大阪キタ新地などで見かける光景に怒りさえ覚えます。

しかし逆に、庶民の中にも少しでも人に喜んでもらえることを追求し続けている人もおられます。

これ、どちらが修行の目的に近いと思いますか?

最近、特に日本の政治家・行政は「金・権力・名誉」にまみれ、本来崇高な修行の土俵である「治世」を おろそかにしている。
この現象はこれからも、もっとひどくなるのでは?と、憂う一人です。
この現象の拡大は、先祖に思いを馳せる日常が少なくなってしまったからと思います。
[先祖を思う心ーー魂の存在を思う心ーー自分にも魂があると思う心ーー]
[人に嘘をつくことができても、自分の心には嘘はつけないーーだから嘘はつかない。]

少しでも人に喜んでもらえることを追求し続けている人には嘘がありません。
本来、修行とは他人がしているから、他人がしないから、と他人に左右されるものではありません。自分の心・魂を磨くためのものですから。
そう思いながらも、やはりもっとお金があるといいな~!もっと楽したいな~!と思う
自分。この煩悩を、先祖に、神様、仏様に詫びながら、また煩悩に納得しながら1歩でも前進したいと思っております。

2008/10/18 Yahooブログより転載

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